2020年6月13日土曜日

司馬の考える「ITエンジニア」の定義

 せっかくブログ立てたので、以前にtwitterでやったネタをまとめておきます。


 これに対する連投。
 

 これ書いた時に「noteにでもまとめた方がいい」って言われたのがずっと残ってた(笑)ので、せっかくブログを立てたついでにまとめておくことにしました。
 自分としては、かなり自分の価値観の根源に近いところを説明したと今でも思っています。

 プロフィールのページをご覧になった方の中には気が付いた方がいるかも知れませんが、司馬は前職の会社ではいわゆる「情報システム部門」に所属したことはありません。むしろずっとユーザー部門や事務部門をいろいろと渡り歩いていました。
 そのおかげか、ヘタな情シス部員よりも広く社内の各部署で使われているシステムやその裏事情を知り過ぎていたために、情報システム部門からは「天敵」扱いをされるハメにもなっていました(笑)

 その当時はずっと「IT側から業務を見る代わり、IT技術にも傾注し過ぎない」というスタンスを堅持していました。前職を退職して大学の事務員をやるようになった今でも、その考え方は今でもあまり変わっていないような気はします。
 上記の連投には、そうしたスタンスもかなり反映されているような気はします。

これから介護へ向かわなければならない皆様へ(4):介護保険は頼りにならないか

 介護をされる家族の方々へ司馬がお伝えしたいことの4つ目は、ある意味既に「他人に頼れ」と書いた話と重なる部分も多いのですが、「介護保険というのは頼りになるのか?」という部分です。ここは既に介護に携わっている家族にとっては「言わずもがな」という部分もあるかも知れません。

 司馬の経験で言うと、親に認知症などの「介護の必要性」の兆候が現われた時点で、早めに市区町村の介護関係窓口・地域包括支援センターに相談し、介護保険の認定を取って、その認定基準で使える介護サービスは可能な限り使うことを考えた方がいいと思います。
 介護度が低くても介護用品のレンタルや自宅のバリアフリー化などは保険での補助の対象になりますし、介護度が上がってくるようなら介護用のパラマウントベッドや便器椅子のレンタルや、ヘルパーさんやデイサービス等のー利用も補助対象になります。自治体によっては介護タクシー関連の利用支援の助成制度が設けられていることも多いようです。
 ホワイトな企業に勤務されている方であれば、勤務先の福利厚生制度にで族介護支援の制度が整備されていることもありますので、そちらも調べてみることをおすすめします。

 司馬の両親の場合は、どちらも80歳を超えていたため、介護保険の負担割合が1割で済んだのも大きかったとは思います。負担割合が2割になると、それだけで家族の金銭的負担が倍になることも事実です。
 ただ、介護保険の認定を受けてサービスを利用することで、「高額介護(予防)サービス給付」のような制度を設けて介護の負担軽減を図っている自治体も多くあります。そうした制度の存在は自治体のWebサイト等でよく調べてみるのがいいと思います。

 両親の介護をするようになってから、FaceBookの「介護家族のとまり木」というグループを紹介していただき見に行ったのですが、書かれている皆さんのメッセージがあまりにも壮絶でした。そこから見ると、自分のやっている介護は介護と言うには非常に浅くて、楽をしちゃってるんだろうな…という思いがあります。
 同時に感じたのが、介護するお年寄りに対する文句だけでなく、ケアマネや介護施設への不平や不満の多さでした。介護をしている家族というのは非常に消耗し疲弊していて、それが故に不平や不満が出るのも当然だろうと思いますし、実際、司馬自身も介護に直面していた時期には、特に徘徊を繰り返す親父には殺意すら覚えたこともありました。そうした不平不満はとても他人事とは思えないところもあります。

 一方、介護保険というのは「介護される老人のためのもの」というだけではなく、「介護をする家族のためのもの」というのを常々感じていました。そういう点から、介護保険制度自体は決して「頼りにならない」ものとは思っていません。
 ただ、介護家族からの介護保険での各種のサービスに対するニーズと、実際の介護保険でのサービス内容のミスマッチは多々あるように思えますし、そういう実態は社会全体としてもっと認知されるべきだろう…と思います。
 特に、今の介護保険制度は制度自体の複雑さと事務手続きの面倒さは改善の余地があります。他の社会保険・医療保険・障害者保険の制度との連携や、自治体行政も含めたワンストップな対応を作って行く必要があろうとは感じるところです。

これから介護へ向かわなければならない皆様へ(3):施設を利用するのであればその施設の方針を尊重するのが吉

 これから家族の介護に直面される方々、現在既に直面している方々へ司馬からお伝えしたいことの3つめは、「デイサービスや高齢者サービス付き住宅、介護老人保健施設を利用するのであれば、運営方針や介護方針についてはできるだけその施設を考え方を尊重するのが、結果的にお年寄りや自分自身にとってもいい結果に繋がりやすいと思う」という点です。

 司馬のところでの2人介護ではデイサービスや介護老人保健施設の利用がメインになりましたが、そういった施設を利用してみると、意外なほど施設によって設備だけでなく運営や介護の方針が異なります。家族としてはいろいろ気になる部分も出てくるとは思いますが、司馬はそういう部分には口を出さないようにしていました。
 お年寄りを施設に入居させると、面会に行った時にお年寄りから聞く話と、職員から聞く話にかなりの乖離が出てくることが少なくありません。ただ、家族よりも介護職員の方が接する時間が長くなりますし、施設で過ごしている時の様子等も客観的に観察されていますので、やはり職員から聞く話を優先した方が後々良い結果に繋がることが多かった気がします。

 介護老人保健施設は割と病院に近い性格の施設であることもあり、一応継続して入居できるのは上限3ヶ月…という制約がありますが、司馬の両親の場合は父親には人工透析が必要で、母親は脳梗塞・脳出血といった基礎疾患があり、他の施設に移すのが困難でしたので、実際には父親は3年半以上、母親も2年弱同じ施設に居着く結果になりました。
 その間にどちらの施設でも「入居していたお年寄りが退去させられる」事例をいくつか見聞きしました。ただ、その多くは「お年寄り自体の問題」というよりも、「面会に来る家族が施設の方針を守らないということに起因している」と聞いています。
 最近は新型コロナウィルスの蔓延もありますが、従来からインフルエンザウイルス等もあり、施設によってはそうした感染症のシーズンになると親族ですら面会を禁止するような施設も少なくありません。家族やお年寄りにしても「顔が見られないと不安」という状況も発生しやすくなるのですが、そういった場合はでいれば施設の職員さんに時々電話を入れて様子を聞く…というくらいに留めておいた方が良いかと思います。施設の方で「親族の意見や見解を聞くべき」という状況になった時には、施設から電話で連絡が入ってくることもそれほど珍しいことではありませんので…。

これから介護に向かわなければならない皆様へ(2):介護の形は人それぞれ

 これから介護に直面する方々へ司馬からお伝えしたいことの2つめは、「介護の形は人それぞれ異なること」という話になります。
 司馬の両親の話についても、あくまで「ひとつの事例」に過ぎない…という点については、このブログを読まれる皆様にもぜひ留意していただきたいと思います。

 介護する家族の立場になると忘れてしまいがちですが、介護される側のお年寄りにしても、症状は人それぞれ違うものの、「自ら望んでそういう状態になったわけではない」と思います。そのため、介護されること自体が心外であったりすることも珍しくなく、それが「介護への抵抗」の理由のひとつになっている気がします。
 司馬自身も両親の介護をしていた頃にはこのことはすっかり忘れてしまっていましたし、そこに気が付いたのは両親が亡くなり葬式が終わってしばらく経ってからでした。

 司馬の両親の場合、父親は徘徊の症状で認知症が顕在化しましたが、介護初期に自宅で居宅介護をしていた頃は介護への抵抗が酷く出ていました。
 1日に2回ヘルパーさんに着替えの補助を頼んでいた頃はヘルパーさんには割と従順でしたが、デイサービスには合わなかったようでした。
 その後人工透析を始めた関係で透析対応可能な介護老人保健施設へ入居させることになったのですが、そうしたところ人が変わったように大人しくなり、最期まで穏やかに暮らしてくれました。
 何故そこまで変わったのかは最期まで分かりませんでしたが、結果としては施設との相性がうまくハマった…ということなのだろうと思います。

 一方、母親の方は、最初に脳梗塞で倒れた際、失語症が出たものの手足の機能には殆ど異常がなかったため、一度は退院して自宅に戻り1年半ほど失語症のリハビリをしていました。その途上で今度は脳出血で倒れてしまい、その時には高次脳機能障害という形で歩行困難になってしまったため、退院後は脳神経外科を併設する介護老人保健施設へのお世話になることになりました。
 ただ、母親の方はまともに身体が動かせなくなり周囲との会話にも支障が出る状態でありながら、いわゆる認知症状にはあまり問題がなかったようで、自分の意思がうまく周囲に伝えられないことが自分でも認識できてしまっていたために、晩年は非常に辛い生活だったようです。
 施設でもしきりに家に帰りたがっていたようなのですが、失語症の関係もあり、家族としては他にあまり選択肢がなかった…という面もありましたが…。

 結果的に、司馬の両親に関してはどちらも最後は「介護老人保健施設に頼る」という形になりました。
 それを振り返ってみて思うこととしては、父親に関しては家族としてできる最後の親孝行になったと思える反面、母親に関しては晩年はかわいそうなことをしたな…という申し訳のない気持ちが残っています。ただこれは施設の問題ではなく、介護を行う家族としての対応の仕方やマネジメントがそれで良かったのか…という気持ちです。
 ただ、いずれにせよ、父親にしても母親にしても、入所した施設で最期の看取りまでお世話になることができたのは、家族としては施設の皆さんには感謝の気持ちしかありません。

これから介護に向かわなければならない皆様へ(1):基本的には他人や専門家を頼ることを考えて欲しい。自分で全てやろうと思うな

 これから身近な人を介護しないといけなくなるとか、現在介護に直面している人に対して私からお伝えしたいことの1つ目として、「できるだけ他人や専門家を頼ることを考えて欲しい。自分で全てやろうと思うな」という体験談を書きたいと思います。

 司馬の場合、認知症の出た親父の面倒を見ていた母親が倒れてしまった時点で、独身で2人の親を看ないといけない…という状況に陥りました。
 1人介護しなければならない家族が出た時点でも周囲には大きな負担になります。これが2人になれば最初から自分で面倒を見るというのはまず無理で、可能な限り公的な介護保険や関連の支援制度を使わざるを得ない…と割り切らざるを得ませんでした。
 ただ、世の中では「家で親の面倒を見たい」という人も多いのも事実だと思いますし、こういうタイトルを付けることに対して「親に冷たい」という心情を持つ方もいると思います。その批判を否定しようとは思いません。

 ただ、「介護」というのは周囲の家族の時間や労力、お金などを容赦なく奪って行くものでもあります。そこはある意味「育児」に似た部分がありますが、「育児」と「介護」の最大の違いは、「介護はいつ終わるかのメドが立たない」ことにあります。ある意味極端ではありますが、「明日突然終わってしまう」かも知れませんし、「あと何年続くかも分からない」のが「介護」です。
 そういう介護を長年に渡って続けて行かなければならない…とすると、「介護されるお年寄り」と「介護する家族」との「距離感」もある程度必要になると思います。「距離」が近づき過ぎることで、特に家族の側にいろいろな「負の感情」が蓄積されていくことになるからです。こうした「負の感情の蓄積」は長く続く介護の生活には決していい影響にはなりません。

 また、介護度が上がってきてもっぱら車椅子生活や寝たきりに近い状態になってくると、褥瘡(じょくそう・いわゆる「床ずれ」)の懸念が出てきます。
 これの対応は基本的には「同じ姿勢を長時間継続させないこと」「寝たきりの場合でも数時間に一度は寝返りさせること」が必要になってきますが、居宅での家族介護ではこうしたケアは行き届かなくなりがちです。こうした事情を考えると、それなりの介護施設に入居させて面倒を見てもらうことで、最終的には介護されるお年寄りにとって苦痛に繋がる要素を減らすことはできると思います。

 ただ、「家にいたい」というお年寄りも多く、このような場合ですと施設に入れることで帰宅願望ばかりが強くなってしまう場合もあり、どうすべきかは判断が難しいところもあります。それでも司馬的には、「自分の手で介護する」ことを考えるよりも、介護保険のサービスをできるだけ利用することを考えた方が良いだろう…と考えます。
 そういった面からも「介護は自分で全てやろうと思うな」というのが司馬の考え方です。

 あと、介護を行う家族の皆さんには、普段以上に自分自身の身体の健康にも留意して欲しいとも思います。
 介護をする家族の側が倒れてしまうと、介護される側のお年寄りだけでなく、その周囲にも迷惑がかかることになります。
 司馬もお年寄りの多い施設を使うようになってからは、滋養強壮の効果のあるサプリメント(マカとかタウリン)を使うようにした他、インフルエンザの予防接種は毎年受けるようにはしていました。

これから介護に向かわなければならない皆様へ

 司馬は2016年の5月に突然始まった両親の介護生活が2020年4月に突然終わりました。「突然終わってしまった」という感じもあるのですが、これからしばらくはその介護の生活を通して見てきたこと・感じたことをいくつか記事として綴ろうと思っています。

 一方、世間では高齢の家族を抱えてこれから介護の心配をしないといけない人も多くいるかと思います。
 本題の内容を書く前に、そういった人たちに向けたメッセージをいくつか書いておきたいと思います。メッセージは以下の4つ:

  1. 基本的には他人や専門家を頼るべき、自分でやろうと思うな
  2. 介護の形は人それぞれ
  3. 施設を利用するのであればその施設の方針を尊重すること
  4. 介護保険は頼りにならない?
それぞれについては別途記事を起こしたいと思います。

 このブログを見に来られる方は何らかの形で親や配偶者の介護に直面されている方ではないかと思いますが、残念ながらそうした方の参考になるような話は多くはならないのではないかと思う…ということは最初に記しておきたいと思います。いくつかでも参考になるような話があれば筆者としても幸いではあるのですが…。

 このブログではコメント欄を開けてありますので、ご意見やご質問などがありましたらお寄せいただければありがたいと思います。

 育児と違い、介護というのは「いつ終わるかが分からない」というところが非常に困る部分です。「あと10年(以上)続くのかも知れないし、明日突然終わってしまうかも知れない」という状況というのは生活設計が立てられないので非常に困る…という部分があります。
 そこに関しては残念ながら司馬も答えを持ち合わせていません。ただ、「かなりの長期間に渡ることになるのであろう」という覚悟だけは必要なのだろう…とは思います。

2020年6月6日土曜日

筆者のプロフィール

とりあえず簡単な自己紹介を。

  1. 昭和40年(1965年) 3月11日生まれ
  2. 45歳の誕生日までは何の変哲もない日でした。
  3. 46歳の誕生日…
  4. 基本ずっと独身です。
  5. 学生時代の専攻は理学部で地震学。
  6. ホントは中学〜高校の頃から気象学に興味がありました。
  7. ラジオの漁業気象聞きながら天気図書くのが好きでした。
  8. 中学の頃はゲーセン小僧でしたが、高校1年生の頃からパソコン(当時はマイコンと呼ばれていた)のプログラミングに興味を持ち始めたような…。
  9. 大学1年生の6月に、大学の(当時の)教養課程の建屋の掲示板に貼られていた「大学の計算機センターの夜勤オペレーターのアルバイト募集」の貼り紙を見て応募したのが人生の大きな転機だったかも。そこでのアルバイトを大学4年の11月末までやっていたので、学部での生活よりも計算機センターに入り浸っていた時間の方が長かったような…。
  10. 大学の計算機センターに入っていた大型計算機のメーカーのSEさんに誘われて、そのままそのメーカーへ就職
  11. そのメーカーに5年勤務した後、某複写機メーカーへ転職。埼玉県にあった工場事業所の商品の開発部門で複写機の制御用ソフトウェアの開発と、その開発環境のネットワーク・サーバー管理を担当。その後その工場事業所のネットワーク・サーバー管理までやることになり、本社の情報システム系部門の敵と化す(笑)
  12. 当時たまたまOracleのDBに明るかった関係で、スタッフ部門から声をかけられ商品開発部門の管理部門で各種R&Dリソース(人・モノ・カネ)を管理するためのシステム開発を兼任。この頃から技術者としてのキャリアから少しずつ外れる結果に。
  13. 同じ頃に気象予報士の資格を取得
  14. 途中で会社の労働組合から声をかけられ幹部役員をやらされるハメに
  15. 勤続16年目に会社がビルを新築し開発部門を集結する…という話になり、館内のネットワーク敷設や運用設計を担当。この頃から家で祖母の介護が発生していて、通勤時間との兼ね合いで結局そのビルに自分が入ることはなかった
  16. 2010年に工場事業所の開発部門を離れて営業系の購買部門へ異動。IT系全般の知識があったので営業部門のバックヤードでIT系他社商材の調達窓口として自社内の営業部門といろいろな他社メーカーとの橋渡し役を担当。当時はケーブル1本から全ての周辺機器、監視カメラ等のシステムまで担当していた関係で「ひとりヨドバシ」状態(苦笑)
  17. 祖母が亡くなった後ほどなくして親父が認知症を発症。その介護をしていた母親が2016年5月に脳梗塞で倒れてしまったため、「2人介護」に直面する事態となり介護休職。
    その後1年半ほどで一旦復帰はしたものの、結局復帰4ヶ月後に会社の早期退職プログラムが走った際に退職に応募。リストラというか介護離職というか…。
  18. 1年ほど無職で親の介護。実際にはこの頃には両親ともに介護老人保健施設のお世話になっていて、ハローワークで失業保険の受給を受けながら仕事探しと両親の介護施設をハシゴする生活。
  19. あまり仕事から離れてしまうと復帰にも差し障りが出るため、介護と両立できそうな仕事を探していたところ、某大学で非常勤の事務職員の募集があり応募し採用。
    職種的には今までのキャリアとはだいぶ離れちゃってますが、仕事の内容としては今までのキャリアが結構活かせる仕事だったり。
  20. 2020年4月1日に母親逝去したかと思ったら11日後に父親逝去

新しくブログを始めることにしました

 新しくブログを始めることにしました。

 10年ほど前、「ブログ」なるものが普及し出した頃に、いくつかブログを作っていたことがあります。いつしかネタがなくなり更新もしなくなっていましたが。

 その後10年以上の時間が過ぎ、いろいろと生活が変わりました。
 10年前は父方の祖母と両親が健在で、当時は私自身も企業でもっぱらコンピューターやネットワーク・サーバー管理の仕事をしていましたが、当時健在だった祖母も90代後半になってから年相応に老いてきて、その祖母は2012年の4月に101歳の大往生で亡くなりました。
 祖母がその年齢だったということは、私の両親もいわゆる「後期高齢者」という世代になっていて、祖母が亡くなってからほどなくして父親が認知症を発症し、それを介護していた母親が倒れてしまったため、司馬が両親2人を介護することになりました。
 そしてその両親もこの4月に相次いで亡くなりました。

 この10年ほどは常に「家族の介護」に直面してきた生活でしたが、これで少し時間ができることになります。
 亡くなった両親の介護生活についても少し書き残しておくことで少しでも両親の供養にしたいと思ったり、その他にもいろいろ思ったことを記録しておきたい…と思ったのが、新しくこのブログを起こすことにしたきっかけです。

 先日、両親の四十九日の法要を2人合わせてやり、家のお墓に納骨をしてきました。
 実際には母親が亡くなってからは60日近く過ぎていて、お寺の宗派によっては納骨は亡くなってから49日以内にしなければならない…というところもあるようですが、私の家の菩提寺は浄土真宗大谷派で、そのあたりには厳格な拘りがないそうなので、お寺の住職にも話をして法要と納骨を一緒に執り行ってもらいました。

 それらも終わり、徐々に更新して行ければ…と思っております。
 よろしくお願いします。